『法然を生きる』 ひろさちや
『法然を生きる』 ひろさちや

『法然を生きる』 ひろさちや

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法然を生きる [ ひろさちや ]
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祖師を生きるシリーズ、今回は法然さんです。YouTubeで昔の『そうだ京都行こう』のCM集で「巨大組織比叡山からひとり飛び出した法然聖人はこの地から浄土宗の布教を始めました。これ言うなれば鎌倉時代のフリー宣言」という長塚さんの朗読とともに出ていた知恩院カッコいい!と思いました。知恩院でお写真撮ってきました。

ひろさんは法然さんが好きだそうです。ただ、現代では法然さんは一般ウケしません。お浄土のお話をしても、現代人は今世が大好きです。食いっぱぐれず毎日3食食べられる、スマホもエアコンもある、なんなら毎日働かなくてもスポットでも生きていけます。しかし、人は全員いずれ死にます。あの世に持っていけるのは今世の思い出だけ。スマホも推し活グッズも、なに一つ持っていけません。友だちを一緒に連れていくこともできません。(あの世では会うこともあると思います)

仏教では、生き物の命を奪わない、嘘をつかない、与えられないものを自分のものとしない、淫らな性交をしない、お酒を飲まないといった戒めがあります。法然は、「酒を飲むのは罪になりますか?」と問われて「本当は飲んではならないけれども、この世のならいですから……」と答えました。酒については、同時に他の罪も犯しやすくなるので戒められてはいますが、私たちは虫や魚を殺してはいけないことすら守れません。殺生はいけないと子どもでも習うことを、生きている以上罪を犯しまくっています。

『では、何のために戒があるのでしょうか……?
——戒は破るためにある——
と考えています。もっとも、‟破るため”といった表現は誤解を招きます。わたしたちは戒を守ろうとしても完全には守れない人間である。完全な人間ではない。と、自覚し、そしてそのような不完全な人間、弱い人間であることを仏に懺悔します。そのために戒があるとわたしは思います。
そして、ここで大事なことは、自分の不完全さ、弱さを自覚し、懺悔することは、同時に他人の不完全さ、弱さを赦してあげることを意味します。わたしたちはややもすれば自分を甘やかし、他人を批判します。
〈たしかに、自分にも悪い点がある。それは認めるが、わたしよりあいつのほうがもっと悪い!〉
と考えるのです。そうした考えの出てくることは懺悔ではありません。何のための懺悔かといえば、わたしたちが他人の「悪」を赦すためです。
〈人間はみんな弱い人間なんだなぁ……〉
と認識することが真の懺悔だと思います。
法然は、戒を守ることにおいては、他の誰にも引けをとりません。ご自分はしっかりと不飲酒戒を守っている。にもかかわらず彼は、
≪ま事にはのむべくもなけれども、この世のならひ≫
と言っている。そこのところに、わたしは法然のあたたかさを感じるのです。』(p22より引用)

法然は売春婦に対して、「売春婦をやめられるのであればやめなさい」と言っています。「断固、やめなさい」とは言わない。相手の立場を考えてあげられるの法然の器です。

『日蓮を生きる』でも、僧侶を流罪にする話がありました。しかし、僧侶をいきなり俗名でもって処罰ができません。なんと!!法然は「藤井元彦」親鸞は「藤井善信」という現代チックなお名前を与えられて流罪になったそうです。しかも法然は、流罪は民衆教化のチャンス!!と考えたのです。地方の人びとに念仏を弘めるチャンス到来!なのです。ピンチをチャンスに!ですね。こうでもならないと、遠方の人々と接触できませんものね。我々凡夫は理不尽は不平で恨んでしまいかねませんが、発想の転換は変わり幅が大きいほど効果絶大ですよね。

法然さん本人は、そんなことは思ってもいないでしょうが、人格者すぎます。人は生きているだけで罪を犯します。法然さんは人を裁くようなことは言いません。ひろさんは宗教と道徳は違うものと仰っています。道徳は強い立場の者が正論で人を裁くのですね。

『それに対して宗教は、殺生をせずには生きられない弱者、嘘をつかざるを得ない弱者の味方をするものだと思います。漁師に対して衆生を糾弾する忍性と、「あなたはそのまんまでお念仏を称えなさい」と教える法然と、どちらが真の宗教家でしょうか?
法然を迫害した旧仏教側は、そんな道徳の立場に立っていたのです。わたしはそう考えます。』(p149より引用)

ここすごく大事です。生きている以上、誰でも大なり小なり悪さをします。犯罪レベルではなくても日常で、人にぶつかって「痛ぇなゴルァ!」と言う人もいます。並んでいる時に割り込む人もいます。赤信号をダッシュで渡ることもあります。「チッ!」と舌打ちしてフキハラをする人もいます。

養豚場で、大事に育てたブタさんを殺すのも良心がとがめて当然なことを、やってくださっている現場の方々には、むしろ頭が下がります。

悪だ!悪だ!と、人が人を裁かないでいましょうといったら、聖人すぎるのです。やってしまったことへの寛容さを本来の宗教は持っているはずです。アッパーに「幸せ!幸せ!」を求めて高額な寄付行為を、お釈迦様も「しましょう」とは言っていません。幸せになりたいと求めなくても、今幸せはありますから大丈夫ですよ。「幸せになりたい!!!」我利我利亡者は不幸への入り口です。いいお客にされてしまいますよ。

法然さんは、こんなすごいことを仰っています。

『立派な寺院を建立することは、それだけ庶民に負担をかけることです。それは法然の嫌うところです。だから彼は、
——念仏の声のするところが、わたしの遺跡だ——
と言っています。すばらしい言葉ですよね。』(p168より引用)
『家に閉じ籠って念仏しているわたしの弟子や同朋たちは一か所に集まるようなことをしてはならない。なぜかといえば、それは仲良くしているように見えるが、集まれば必ず争いが起きるという。その言葉は正しい。よくよく注意し、慎むべきだ。とすればわが同朋たちは、わたしの死後、それぞれの場所にいて会わないほうがよい。争いの原因は人が集まるからである。どうかわが弟子・同朋たちは、それぞれの草庵に静居して、わたしが極楽浄土の蓮台に生まれることを祈ってほしい。ゆめゆめ一か所に大勢が集まり、論争し、怒りをもよおすことがあってはならない』(p169より引用)

大勢の人が集まると、もめごとが起こります。ごもっともです。先をよんだ法然さんがすごい!

■■■あめ的回答■■■

ひろさんご自身、他人に迷惑をかけたり、恨まれるようなこともいっぱいしてきたのだろうと仰っています。思い出せないことでも何かしらやってきたのだろうと。私もそうです。恨まれていても、刺されなくて良かったわ……とむしろ感謝に変わったりします。

ひろさんはよく、人の物差しと仏の物差しは違う、許しと赦しも違う、と仰います。恩赦の「赦」です。

『わたしたちが願うべきは、仏の物差しによる赦しです。それは、お浄土においてしか与えられないものでしょう。わたしはそんなふうに考えるようになりました。これも法然から学んだことです。』(p199より引用)

絶対的善人になるとかは、われわれ凡夫には不可能です。生きているだけで毎日なにかしらの罪はつくっています。アルボムッレ・スマナサーラさんのご本でもありましたが、1つ徳を消したら3つ徳を積むぐらいの心がけで花マルだと思います。自分では償いきれないことは、あの世で謝ってもいい。それぐらい慎ましくしていると、おかしな生き方を今世でしなくてすむと思います。

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