『坐らぬ禅』 ひろさちや
『坐らぬ禅』 ひろさちや

『坐らぬ禅』 ひろさちや

[商品価格に関しましては、リンクが作成された時点と現時点で情報が変更されている場合がございます。]

坐らぬ禅 [ ひろさちや ]
価格:1,980円(税込、送料無料) (2025/9/29時点)

楽天で購入

 

 

昔のたくさんの禅僧たちのそれぞれの有名なエピソードが、ひろさんの解説を交えて紹介されています。

よく、ひろさんは「南無そのまんま」「馬鹿になるな、阿呆になれ」と仰います。

『「南無そのまんま」こそ、禅の教えです。わたしはそう思います。
わたしが病気になれば、しばらくはわたしは病人です。その病人が、なんとか早く病気を治したいとあくせく、いらいらするのは馬鹿です。馬鹿な病人になってはいけません。阿呆な病人になってください。
阿呆な病人は、阿呆のまま、毎日を楽しく過ごす算段をする人です。病人であっても、できることは数多くあります。パーキンソン病患者で山登りの好きな人をわたしは知っています。
前にも言いましたが、なんとか貧乏を克服して金持ちになりたいと考えている人は馬鹿です。』(p33より引用)

お金持ちでも不幸な憂き目に遭っている人もたくさんいます。貧乏でも楽しく毎日を送っている人もいるというのは、皆さんもこれまでの人生で観てきたことでしょう。南無そのまんまに、しんどい坐禅をしなくても大丈夫です。

あめちゃんは達磨(だるま)さんの「無功徳!(功徳なんてあるものか!)」の喝破が好きです。

これは武帝が、「私は寺を造って、経を写し、僧を度したりしてがんばっているけれど、どんな功徳がありますか?」と、尋ねたことへの喝破です。

『常識人の武帝は、いいことをすればいい結果が得られると信じています。これは、われわれ俗人のみんなが考えていることです。でも、いい結果——というより、むしろいい報酬あるいはいい功徳といったほうがよさそうです——が得られないからといって、あなたはいいことをするのを止めますか?達磨はそのことを言っているのです。』(p48より引用)

それこそ、返礼を期待して親切をして、期待したほどの返礼がなければ腹が立ったりもするでしょう。だったら、そんな親切であれば止めてしまえ!ということです。あげたらそれで終わりにしないと。

そりゃ私たち凡夫は「私はこれだけしてあげているのに…」と思ってしまいます。そこで相手を恨むとかするぐらいなら、そもそもしないことです。お互い不幸です。だから、あげたらそこで終わりましょう

曹洞宗 道元さんの説法、今のあめちゃんにアドバイスしてくださっているようでした。

『たとえ自分のほうは道理があると思って言い、相手はひがみ根性から曲がったことを言っても、理ぜめで相手を言い負かすのはよくない。また、相手は実際に道理だと思っていながら、わざと自分のほうがまちがっていましたと言って退くのも、早まったことだ、相手を言い負かさず、自分のほうもまちがったことを言わずに、ごくごく自然に終わるのが好ましい。相手の道理に外れた言葉を耳に入れぬようにして忘れるならば、相手のほうもこちらの言葉を忘れてくれて、腹を立てることがない。これが対論の際に心すべき第一のことだ。』(P147より引用)

これは人間関係の極意ですね。こちらの言い分が正しいと言い負かしてやろうと呪ってしまったり、とにかくしつこいのはいけません。(相手を言い負かして勝っても恨まれるだけです)スマートに終わること。

『仏道を学ばんとする人は、自分の見解に固執してはならない。』(P148より引用)

■■■あめ的回答■■■

最期のほうに、正岡子規の言葉が引用されていました。

『余は今まで禅宗のいはゆる悟りといふ事を誤解して居た。悟りといふ事は如何(いか)なる場合にも平気で死ぬる事かと思つて居たのは間違ひで、悟るといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であった。』(P199より引用)

ひろさんが仰るには、仏教はゴール(目的、終着点)はないとのことです。人生に到達点はなく、なので、常に、今、ここからの出発点しかない。

「日日是れ好日(にちにちこれこうじつ)」という雲門文偃(うんもんぶんえん)の有名な言葉があります。

もう昨日までのことは放っておけ。毎日を好日にせよ!という命令文です。

繰り返します。馬鹿になるな!阿呆になれ!

にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ
にほんブログ村
PVアクセスランキング にほんブログ村