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●YouTubeチャンネルで知ってから、発想の素晴らしさにあめちゃんがリスペクトしまくりの執行草舟さんが、40年以上ずっと愛読されているのがこの『食えなんだら食うな』です。実は以前ご紹介しました山川宗玄さんのご本で「食べられなければ、食べなくてもいい」というある師家(しけ)を務めた方のエピソードが載っていたと書きました。これは関大徹さんのことだったのですね!もちろん「食えなんだら食うな」はインパクトがありますが、インパクトに終わりません。このご本に載っている関さんのお話は全て我が身に起りうることであり、どうとらえていくか?自分自身の本質を晒しえることでもあります。こんなとき、あなたはどう出るでしょう?
●まず、このご本の目次が素晴らしい✨です。目次は12項目
食えなんだら食うな
病いなんて死ねば治る
無報酬ほど大きな儲けはない
ためにする禅なんて嘘だ
ガキは大いに叩いてやれ
社長は便所掃除をせよ
自殺するなんて威張るな
家事嫌いの女など叩き出せ
若者に未来などあるものか
犬のように食え
地震ぐらいで驚くな
死ねなんだら死ぬな
目次だけでも勇気がいただけます。(すごい蛇足ですが、「信者」と書いて「儲ける」という字になるよと言っていた人がいたのを思い出しました)
●病いなんて死ねば治るの中で、関さんがガンになって手術で命をとりとめたエピソードが載っています。「おめでとう」と言われても嬉しがりもしなかったそうです。
『それはそうではないか。ガンにかかって奇跡的に命を得たからといって、不老長寿の保証を得たわけではない。何年か、何十年か生き永らえるだけであり、あるいは、死のきっかけがガンという病名でなくなっただけのことであって、死から免れたわけではないのである。』(p56より引用)
ガンは治っても心筋梗塞で亡くなることもある。パーキンソン病か、肺炎か、糖尿病か…病名がなんであれ、人はいずれ死ぬのです。この病気ならセーフ、交通事故はアウトとかではなく、死因になる病名の椅子取りゲームになんの意味があるんだろう?とすら思います。
『病とは、死ぬための一つの手段にしかすぎない。私は、ガンという手段で死ぬはずであった。その手段が医師によって截(き)りとられた。ただ、それだけのことである。私は、つぎの手段を待つ身になったにすぎない。』(p62より引用)
『人間、なんのために生まれてきたかという問いに対して、万人共通のこたえを求めるならば、それは死ぬためであり、「老」も「病」も、死への手続きにしかすぎないのである。』(p64より引用)
●太古の昔からの理だったのでしょうか…。陰徳=便所掃除ということ。このご本では、便所掃除の「徳」の意味をとり違えた「罪」の例となる話が載っています。徳を帳消しだそうです。これはぜひとも本書をお読み頂いて、我が身に置いてみて考えていただきたいところです。
●関さんが本書で「諸行無常」であると何度も仰っています。誰も、明日はわからない。
関さんが、また聞きのまた聞きのお話を聞かれました。ある初老の未亡人が公園の清掃作業をしていました。若者が近寄ってきて「これをあげよう」と言って、細かく千切った紙をあちこちにばらまいて「おばさん、仕事ができてよかったね」と。この話をしてきた人物が「関さんがおばさんの立場なら、この若い衆を張り飛ばしていますか?」と聞きました。関さんは、おばさんの立場であっても手出しをするまでもない、と。
『いずれ、その若い衆は、その報いによって、そのおばさんみたいに悲しい目にあわされるだろう。そのときに思い知るにちがいない』(p191より引用)
天網恢恢疎にして漏らさずとは言いますね。さて、「本当に天罰(仏罰)ってあるの?スピみたいで信じられない」という方、試しに何か、あえて悪さをできますか?ブーメランの法則なんて無い!と言い切ってできますか?うっかりではなく「わざと」ですよ?今のあめちゃんは怖くてとてもできません。自分では検証できないのです…(汗)。
●地震ぐらいで驚くなも、本質的ですごいです。関さんは、新聞などの報じ方に「カラクリ」があると仰るのです。
『新聞は、具体的な予測数字をあげつつも、実は「大勢の」人が死ぬであろうということしかいっていない。大勢の人が死ぬということは、反対にまた、大勢の人が助かるということでもある。何百万人の罹災者のうち、何十万人が死ぬといわれれば、数字的には、何百何十万人の人が助かるという道理であり、実は、この道理こそ曲せ者のようである。』(p220より引用)
大勢が死んでも、なお大勢の人は助かる…当然人情として助かる側へつきたいわけです。助かる数字も大きいから、助かる側に入った気分になります。しかし、ここにカラクリがあります。
実は、
死ぬのは一人です。おのれ一人。
あめちゃんも実は、人と一緒に死ぬというのは実はムリなんじゃ…?とは思っていたんです。関さんは、「死ぬというのは、数字が死ぬのではない。おのれ一人。」と仰っています。病気でも事故でも事件でも、死ぬのはおのれ一人です。何かで必ず人は死にます。関さんはすでに亡くなられていますが、生まれが明治36年、生きていらしたら122歳です。
『仏教の課題は、死んでどうなる、ということであり、死んでのち自分の「いのち」をいかに荘厳にするかにあり、そのためには、死ぬまでどう生きるかが問われてくる。』(p251より引用)
『わかっているのは、生きている間に、再び生まれ変わったとき何を為すか、という課題をしっかり固めておかねばならない、ということであろう。』(p251より引用)
『自分の来(こ)し方(かた)に満足をしきった老人ほど美しい姿はない。』(p251より引用)
■■■あめ的回答■■■
すでに絶版になっていた本書は復刊されたものです。執行さんがご自身の生命をつながれた貴重な関さんの書物。あめちゃんも、すごく生きていく勇気を頂けた一冊です。
やはり、自分の生き方から逃げも免除もできないんです。受け容れていくことです。大丈夫。1のことを100のようにとらえて大さわぎしなくても大丈夫。今日、ごはんを食べられなくても大丈夫。執行さんがこのご本にコメント文を最後に寄せてくださっています。一見、どんな不遇に遭っていても、このご本との出会いをスタートに新しい人生が生まれると思っていいと言い切ってくださっています。本が師匠となる。このご本は師匠としてまちがいありません。
曹洞宗の関さんですが、臨済宗の源光庵の血天井のお写真をば。深い雰囲気が出るから載せてみました。