『生き方、 ちょっと変えてみよう』 ひろさちや
『生き方、 ちょっと変えてみよう』 ひろさちや

『生き方、 ちょっと変えてみよう』 ひろさちや

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生き方、ちょっと変えてみよう あなたはじつは仏の子 [ ひろさちや ]
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この書評ブログ300回記念の今回は、ひろさちやさんをチョイスさせていただきます。

今回のひろさんのご本も冒頭から目からウロコの神回答くださいました。みなさんも、神も仏もいるのなら、なぜ幸せになれない人がいるんだ?不幸に苦しむ人がいるんだ?なぜ救って下さらないんだ?!と思ったことはありますか?ひろさんのもとにも、そのような内容のお手紙が来るそうです。よくある質問だそうです。ひろさんの回答はとても簡単です。

「あなたは、そういう質問をしてはいけない」

だそうです。これは決して煙に巻いている訳ではありません。

『これは仏教に関してだけではありません。キリスト教やユダヤ教、イスラム教においても、われわれ人間は、
——神の意志——
を尋ねてはいけないのです。
(~中略~)
「これはおかしい、よくないことだ」と断定するのは、われわれ人間が神仏を裁いていることになります。
たしかに、この世の中には、どうしようもない悪人がいます。罪もない小さな子どもを殺す殺人犯もいます。そんな人間はいないほうがよい——と、わたしたちは思うのですが、そう思うのは人間の越権行為です。ほとけさまの慈悲は、そういう殺人犯人にも及んでいることを、わたしたちは忘れてはいけません。』(p25より引用)

「こんなことになるなんて絶対におかしい!!」と、つい神仏にケンカを売りたくなるのが未熟な我々凡夫ですが、神仏のはからいは、そんな未熟な凡夫にホイッと簡単に解ることではありません。だからこそ南無(おまかせ)するんですよね。

『わたしたちが「南無阿弥陀仏」「南無妙法蓮華経」をお唱えするときには、
——いかなる結果になろうと、わたしたちは文句を言いません。与えられた結果を最善のものとして受け取らせていただきます——
といった覚悟が必要です。』(p157より引用)

南無は全権を委任するのであって、「唱えたのだから何でもお願い事を叶えてくださいね」という取り引きではありません

「お題目を唱えれば何でも願い事は叶うよ!」と教えている宗教団体はあります。しかし、南無するというのは、病気が治らなくても、婚約が破断しようとも、リストラされようとも、神仏が自分に必要で起こしてくださったありがたい現証なのだと受け入れることです。

昔の人たちは、神仏を畏怖してきました。人間側が、ああしてくれ、こうしてくれと神仏に注文をつける。いったいいつから、神仏を、お願い事を叶える便利屋さんに解釈してしまうようになったのでしょう…。

法華経では私たちの住んでいる現実世界を火宅(かたく)=住んでいる家が火事でぼうぼうなのに気づかず平気で遊んでいるというたとえ話の説明があります。確かに今の日本はひどい競争社会になっています。競争に勝つためならなんだってします。

『商品の偽装表示が問題にされていますが、競争原理を是認するかぎり、あれはなくならないでしょう。競争に勝つためには、悪いか・悪くないかは問題にはならず、ばれるか・ばれないかだけが問題なのです。』(p87より引用)

日本は火宅というより地獄ですとひろさんは表現されていますが、なにがなんでも(なにをしても)勝ってやるという地獄に執着してはいけません。自分を、昨日よりもちょっと良くしていこうという精進する姿勢を仏は見ていますよ。

■■■あめ的回答■■■

人は自分のことは棚にあげて、他人のアラ捜しをして裁き、ジャッジをすることは日常でやってしまう。そんなことをしているものだから、さらに忙しくなる。それは自分の仕事じゃありません。いっそ天にすべてを委ねてみてください。あぁ、自分はこんなしょうもないことに夢中になっている場合じゃなかったと、見えてきます。南無して任せたら、何が出てきても文句を言わない。それでいいんです。意味は必要なときにちゃんとわかりますから大丈夫。しかし、判らなくてもいいことの方がよっぽど多い。

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