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庭園デザイナーで曹洞宗徳雄山建功寺住職 枡野俊明さんのご本です。
今更なのですが、禅は二つの宗派があります。曹洞宗=坐禅(座ではないです)、臨済宗=禅問答が修行の旨となっています。
こちらのご本は一休さんのエピソードが色々出てきます。とんちの一休さんですが竹のように さっぱりしなやか。レジリエンスのある方だったようです。
『心が揺れることは人間だから誰でもあります。揺れる心、迷う心自体は悪くない。問題は、そこでしなやかにスッと元に戻れるかどうか、そういう力を持てるかどうかです。「そのときはそのとき、あのときはあのとき」と割り切ってひきずらない。執着しないことです。』(p81より引用)
あのときと今は違います。因みに、自分が「あなたはあの時こう言った!」と人から詰め寄られたらどうでしょう?
禅の教えでは今を大事に生きることです。
『誤解を恐れずに言えば、死んでから仏になるのは誰でもなれますが、いま仏になる、あるいは生きている間に仏になるのは、決して簡単ではありません。でも、それを目指しましょう、と一休禅師は言っています。』(P71より引用)
とはいえ、そこに執着があってはいけないのですが。自分が楽しくワクワクと生きることが本質なので、迷ってもそこに戻って来れば大丈夫です。
●こちら、ステキだなと思ったお話です。
『苦手なものを克服するのにあまりに時間とお金をかけるのは賢明とは言えないわけです。
(中略)
自分が得意な分野、好きなこと、向いていることに投入して磨きをかけたほうがはるかにメリットは大きいと思います。』(P100より引用)
苦手なことをムリやり頑張って克服しようとしても、コスパもタイパも悪すぎます。好きで得意でスイスイやってのける人にはまったくかないません。脳科学者の中野信子さんは「自分が苦手なことは、得意なやつにやらせる!」と答えを仰っていました。自分が得意で好きなことに集中するなら、なんと幸せなときなのでしょうか。
●こちら、なかなか深い命題です。世界的に民主主義国の内部で分断が深まっているそうです。
『多数意見はあくまで暫定的な結論です。多くの人が賛同したとしても、それは一時の熱狂によるもので、もしかしたら間違っているかもしれないからです。』(P101より引用)
数の暴力は怖いです。世界的に見たら、少数派の人たちが自分たちの正義を訴えて暴動を起こしたりもあります。多いから正解ではない。
『意見が対立したときに、相手のことをやみくもに否定して「これはこうだろう」と押し付けてしまうのではなく、「なぜそう考えるのだろう。どんな事情があるのだろう」と一度引き下がって相手の意見をよく聞いてみる。』(P104より引用)
相手の立場になってみると、けっこう冷静になれたりします。自分自身の意見も、どうしても相手にかぶせなくてはいけないほど正しいんだろうか?と、考えてみた方がいいですね。
■あめ的回答■
やっぱレジリエンス(心のしなやかさ)大事です。正しさに執着して苦しむよりも放してしまって、しなやかな心になった方が、よっぽど自分を守れます。「これしかないんだ!これが正しいんだ!」と視野狭窄に陥って苦しんでいる方は、このご本の考え方を頭の片隅にでも置いておくと、拡張していって、ふぅっと力が抜けて、冷静になれると思います。
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